惨状の背景には、大国の影が


先週、1週間お休みをいただき、カンボジアに行ってきました。

タイに住んでいた頃、カンボジアは、タイに出稼ぎに来る人ばかりの貧しい国だと思っていました。

トラックに詰め込められて運ばれていく作業員や、街中で物乞いをしている体の不自由な人も、多くがカンボジアからだと聞いたからです。

でも、実際に訪れてみると、首都プノンペンは、思っていたより、ずっと発展しているように見えました。

街中のカフェやレストランは、どこもFREE WIFIで、データは購入するもので、サービスで提供されないアフリカに比べ、インフラは安く安定していそうです。

人も、みんな優しくフレンドリーでした。

クメール語は、タイ語に似ていて、街の雰囲気も、高いビルがタイよりは少ないことを除けば、似ています。

でも、ちょっと郊外に向かうと、赤土に新緑が映え、埃と喧騒とが混じり、その風景は、どこかガーナを思い起こさせました。

シェムリアップでは、アンコールワット遺跡群の観光絡み以外の産業はないようですし、プノンペンにもおしゃれな小売店はあっても、客足は少なく、内需はまだまだこれからのようです。

カンボジアといえば、思い浮かぶ悪名高いポル・ポトによる大虐殺が行われたのは、1975年から1979年までの3年8ヶ月。

知識層を中心に国民の4分の1が虐殺されました。

外国人はCIAのスパイという罪を着せられ、メガネをかけた人は、知識層とされ連行され、暴行、自白を強要、処刑されました。

どこか遠い国で内戦や虐殺が起きると、その前のコンテクストを知りもせずに、

「なんて野蛮な」

と、非難しがちですが、実は、そこに至る過程があります。

その多くの場合、裏に大国の動向と思惑があり、実際には、新興国の多くの惨状が、チェスのコマのように動かされた影響や結果だったりすることがほとんどです。

アフリカでも、中東でも、アフガニスタンでも・・・

ベトナム戦争中、戦火から逃れカンボジアに入るベトナム人を狙い、米国はカンボジアを激しく空爆しました。やがて空爆は全土に渡り、犠牲者は、数十万人に及んだそうです。

(私は、恥ずかしながら、アメリカがカンボジアも空爆していたことを知りませんでした)

そんな混乱の中、反米を掲げたクメール・ルージュの革命が、市民に歓迎されたのでした。

それが、まさか大虐殺に向かうとは、市民は誰も知らずに。

タイへ逃れようとする人を防ぐために、当時、タイ国境沿いには、地雷が埋められ、

現在も人口の70%が雇用がなく、仕事を求め、タイに渡ろうとする人が犠牲になっているそうです。

バンコクのプロンポン駅で、いつも舗道を這っていた両足を腿から失くしたあの物乞いの男性も、その一人だったのかもしれません。

一人では遠くに移動ができないのに、気づくと毎日そこにいて、気づくといなくなっている物乞いの人々は、マフィアに管理され、そこに「出勤」させられていました。

集めたお金のほとんどは、没収されるので、お金を与えるのは、マフィアを増長させるだけだと言われたことがあります。

足元を這う彼の異様な姿にギョッとしたものですが、

誰が、地面を這い、生命を維持するだけの最小限の食料で繋ぐだけの人生を欲するでしょうか?

ベトナムのカンボジア侵攻を機に、ポル・ポト政権はタイ国境地帯に逃れ、虐殺が明るみに出たのちも、欧米諸国は、正規政権として認め続け、国連の議席もクメール・ルージュに与えていたそうです。

クメール・ルージュに武器を提供していたのも、ベトナムと敵対する米国でした。

その後も混乱は続き、カンボジアに平和が訪れたのは、1991年。

まだ20年にもなりません。

弾薬がもったいないので、乳児は、木に打ちつけて撲殺して捨てたという大きな穴からは、雨期になると、地面から新たな骨が発見されるそうです。

今は、のどかな公園のようにベンチが配置されたkilling field では、神妙な顔持ちの外国人観光客とは対照的に、カンボジア人の小学生たちがワイワイと賑やかに走り回っていたのが、なんだか逆にホッとさせられました。